とかく私の住んでいる「世界」は酷く狭いわりに異常に深く、思った以上に広いように感じられる。
公式にActive Algolagniaと自称している私の性的嗜好は「苦痛性愛」と訳される。苦しみや痛みを与える・与えられることに性的な興奮を得るという嗜好(ちなみに私はアクティブなので与える方)である。文字そのままわかりやすいことこの上ない。その嗜好の中に「サディズムマゾヒズム」が含まれる、とも言える。DSMにおけるパラフィリア症(paraphilic disorder)であるが、現代においては本人の生活に支障がない場合が多数であるように思われるので、きっと診断されるような障害とは遠い位置にある、いわゆるマニアという分類がいいのではないかというのが個人的な意見だ。
なお、持論としてSMに代表されるような行為を愛する者はおおよそ4種類に分けられると考えているのだが、ここから先は「苦痛を性的な快楽と受け取る嗜好を持つSM愛好家」の話をしていこうと思う。
当然ながら、通常の人(社会通念上の一般的な人)は痛みも苦しみも受けたくはないし、与えることに躊躇いがあるだろう。それを必要とするのだから自分たち愛好家は業が深いとしみじみ思うわけだが、大事なのはその「欲求の解消」には相手が必要だということである。行為に同意してくれる相手がいなければそれはただの傷害であり(厳密には合意があろうがなかろうが傷害であることに変わりはないのだが)、暴力である。
とはいえ、では同意があれば暴力ではないのかと問われればそれは違う。暴力はどこまでいっても暴力だ。私たちは常に自分の欲望を満たすために相手を傷つけ、あるいは傷つけられる(それはつまり暴力を振るいたくない相手に対して暴力を振るわせるという同等の暴力を用いていると私は考えるのだが)救いようのない性を抱えていると意識しなければいけない。
反対に、許容してくれるパートナーがいるということはこの上ない幸福なのである。
問題は現代において人には基本的人権が保障され、奴隷制度は表向き廃止され、生殺与奪の権利はだれにもないという点である。
私たち愛好家は、それを踏まえなければならない。つまり、日常に支障をきたすことのないよう怪我は最小限にとどめ、命を落とすことがないよう配慮をしなければならず、安全に元の生活に戻れるように遊ばなければならないということだ。言い換えれば、本来は大怪我や死というものが手招きしているような状況こそ回避すれ、それがすぐそこにあるような行為であるという自覚を持たねばならないということでもある。
縛られれば麻痺もする。打たれれば皮膚は切れる。どんな責めにも最悪の危険は存在している。それをわかったうえで、最大限それを避けるように努力をしようというのが遊びの前提であるべきだと私は思う。
神経麻痺しないに越したことはない。当然である。失明しないに越したことはない。当然である。それでも体に縄をかける以上は神経を痛める可能性をゼロにはできないし、鞭を振れば顔に当たる確率がゼロとは言い切れない。そういうものである。だからこそ責め手はどこか冷静でいなければいけないし、責めるために学ぶ必要がある。受け手はこの人にどこまで許せるか見極めなければいけないし、無理を伝える努力が必要なのである。危険を伴う遊びであるからこそ相手選びは慎重に、と思う。
藍紫会で私がセッションの相手に「私を望む人」と明記しているのはこのためである。
SMがサブカル化してポップなものになってきてから明らかに人が増え出会う機会も多くなったように思うが、どうも危険について真面目に認知していない人が巷には溢れているという印象が拭えない。上手だから安全、そんなことはない。有名だから事故はない、それも違う。経験が多ければその分怪我を回避しやすいかもしれないし、対処にも慣れているかもしれない。そういう意味で有名なプロは無名の新人より意図しない怪我をさせにくいかもしれない。
怪我をすることがあってもこの人としたい、そういう相手を選ぶのは、責め手にも受け手にも大事なことだと思う。もちろん怪我をした後の対応をお互いにするという意味でも。(明らかに受け手の身体ダメージの方が大きいはずなので)
一歩間違えば人生が狂う、そんな行為だということを前提に、SM愛好家全ての人が満たされた人生を歩めますように。(私も含む)

