主従関係にはめっきり興味のない私ですが、なぜか周りにはサブ気質が集まってくる不思議。
支配欲はないけれど所有に関する執着があるせいか、自分でもうっかり勘違いすることはある。SとM(加虐と被虐)は痛みと苦しみを介して互いを必要とする対等な立場であるのに対し、DとS(ドミナントとサブミッシブ)は対等であるはずの人間同士が上下に分かれる役割を持つ遊びであると思っている。
何度も言うが、本気であろうとなかろうと「遊び」という区分の認識は大事なことだ。
いやこれが私の自然体だから、と反論してくる本質を理解していない人はこの際置いておく。電子レンジに猫を入れるなと注意書きしなければいけないような全方向配慮文章はそもそも言いたいことを言う前に疲れてしまう。とはいえ、あれは多分猫をお風呂に入れた際乾かすための乾燥機というものが存在している(一般的ではないが日本にもあるはず)なかで、似たような機会に間違えて入れたか、その機能もあるだろうと安直に考えたか、そういったある意味ミスの話であるような気もするが。
ところで私が一切ドミナントプレイはしません(意訳)と言っているにも関わらず、セッションしていてそれなりに求めてくる人というのは一定数存在する。それは「女王様」という私の立ち位置のせいなのだろう。ストーリープレイは別物だが、それ以外でもプレイの内容や組み立て、その場の流れを主導しているのは間違いなく責め手である「サディスト」である。そして命令や指示に従おうとするマゾヒストー正確にはサブミッシブ気質の強い受け手ーが存在している。
私が極自然体でプレイしているとき、受け手が反論して私も駄々を捏ねることがある。女王様としてはあまり見られない光景だろうが、その鞭は痛いから嫌だと言われれば「でもだって打ちたいんだもん、今!」と言い返す。どっちが子どもなのかわからないが、それでも私たちの関係が崩れることはない。なぜなら、苦痛を与えるサディストと苦痛を受けるマゾヒストという役割は変わっていないからだ。
ドミサブはそれとはまた違う。主観で話すと、ドミナントは気を遣うことはあれどサブに奉仕してはならない。与えることはあっても、差し出してはいけないのである。サブミッシブは欲張りになってはいけないけれど謙虚すぎるのは問題となる。いつの時代も主を選ぶのは従者の特権であり、だれを従えるのか決定するのもまた主側の権利である。従者がもうついていけないと匙を投げれば関係は終わり、主がもう必要ないと宣言すれば繋がりは切れる。ともに対等でありながら上下に分かれた関係を楽しんでいるのがドミサブだと勝手に私は解釈している。もちろん異論は認める。
そもそもどちらがいいとか悪いとか、どちらの方が正しいとか正しくないとか、そういう話ではない。行為と最中の関係性について違いがあるだけで、根本的にどちらも人としては対等であるというのが私の認識だ。そこに「SなのにMに反論されてる」と揶揄ってきたり「ドムなのにサブに甘い」と忠告してきたりする人が偶にいるのだが、見当違いも甚だしい(と感じている)。
私もかつて十代の頃は「女王様(S)としてこう在らねばならない」という価値観を押しつけられ、またそうあるべきだと自分でも思っていた部分はある。それが苦しくて、もしかしたら自分は違うのかもしれないと悩んだ夜も多かった。辿り着いた結論は非常にシンプルで、人間は多面的な生き物であり社会的な動物である、ということだ。役割を演じるのことが偽りの自分とはならないし、立ち位置による振る舞いの違いは当たり前のことである。「対自分」との関係や言動がすべてであると思えるようになってからはかなり気持ちが楽になったように感じている。
人間はグラデーションだ。だれかに対してSであっても、別のだれかに対してはMかもしれない。性的嗜好と性格は別物であり、従属的な性格の人が非常にサディスティックな快楽に興奮することもある。当然、逆も然り。こう言うと「あなたもMなんですね」と言い寄られるが、「そうなりたいと思えるSと出会えればきっとそうなるんでしょうね」と答えるのみだ。少なくともそんな言葉を不躾に投げかけてくる頭の悪い人のMやサブになりたいなど、微塵も思わないわけだが。
「私の奴隷になりなさい」よりも「あなたの奴隷にしてください」の方が私の好みである。(当然相手による)

